今朝行ったとあるツイートに一つリプライしていただいたメッセージがあったのが引っかかった。
海外のロックダウンや外出制限が少しずつ緩和され始めるのを、やたら報道してるけど、情報操作してませんか?海外はきっちり一定期間、強制的に外出禁止や休業させて封じ込めて…の話しです。緩い自粛要請じゃありません。#スッキリ #とくだね #情報操作 #延長 #報道 #日本政府 #解除反対 https://t.co/SBjF4kGbYl
— marble rainbow (@marblerainbow2) April 27, 2020
正直この傾向は私も感じるところである。感染者増加が減少傾向にあることに加えて、自粛要請を無視するパチンコ屋や国民の存在を取り上げて「もうゆるくしてもいいころですよね」などと、日本をなんとなく自粛勧告や緊急事態宣言の解除へ誘導しているようにも見える。
メディアというものの在り方が、なかなか難しくなってきている。もちろん正確な情報をありのまま見せるというのはメディアの使命だが、淘汰されないということも重要なので、あの手この手を考える。
時にはフェイクまがいのニュースを流してみたり、全然本題と異なる刺激的なタイトルをつけてみたり。
しかしこういうやり方がいいのか悪いのかという議論は置いておいて、そもそもメディアというものが正常に動いているかというところに疑問がある。
(C)2019「i 新聞記者ドキュメント」
その意味で今回取り上げたいのが『i―新聞記者ドキュメント―』だ。この作品は映画『新聞記者』のモデルにもなった東京新聞の記者・望月衣塑子の主戦場での姿から、メディアの在り方を問うドキュメンタリー作品。
作品では社会部という記者としては政治の現場を取材するものとしては門外版の立場ながら、果敢に現場に向き合う望月の姿勢に注視されており、その姿はある種メディアとしての在り方を象徴するものだという印象を持たれた方も多くいることだろう。
ただ一方で、私は少し違った印象を持っている。
この映画は昨年行われた『第32回東京国際映画祭』で「日本映画スプラッシュ」部門でのグランプリを果たしている。当然映画祭の上映でも作品を手掛けた森達也監督とともに望月は現れた。
そこではQ&Aも行われ、望月も質問を受け付けた場面があったものの、その答えが…非常に長い。そしてその内容が結局どんなことを言いたかったかと後ほど振り返ると、意味合い的には同じようなことをしゃべったのではと思われる内容も多く、おそらく喋ったワードの1/3程度に収まる内容ではないかという所感だ。
記者会見などというと、多くの記者が対象者をぐるっと囲質問をするのだが「それ、同じ質問じゃないか」と思われる内容が同じ会見のときに出てくることも意外にある。
一昨年発生した「日本大学フェニックス反則タックル問題」の差異、大学側が会見を開いた際に、司会者が業を煮やして「同じ質問しか出ないのでこのへんで辞めます」という一言で会見をお開きにしようとしたケースがあったが、正直メディアからの質問には時にくどいと思われる質問もある。
もちろん「納得できる回答を得られないから」「嘘は書けないから慎重に」という記者としての使命に従った行動であるかもしれない。
しかしそもそも質問は簡潔で分かりやすいことなのか?質問の意図、目的ははっきりしているのか?と問われると、取材のやり方自体にあいまいになっている部分も少なくないのではという危惧もある。
先程述べた望月の、あの調子で質問を投げかけられたら菅官房長官でなくても、またたとえちゃんと回答できる回答でも、回答する気力を喪失してしまうかもしれない。
決して望月がこれまでやって来たことを非難するつもりはない。むしろ果敢に現場に立ち向かっていく姿勢、行動力は、お手本にできるところはないかと探っているほどだ。
ただ彼女の別に見せるそういったほころびが、こういう異常な状態に世の中が陥ってきた時に、メディアはメディアとして存在する中で正常な機能を果たせていないのではないかという人々からの心配を引き起こしているようでもある。
しかもそれは劣悪な労働環境というよりは、その現場に携わる人間一人ひとりの意志の持ち方という部分に顕著に見られる。
「今はこんな状況」という絶対的な様子を知ることなんてそれこそ究極的な命題、不可能に近いことであるとは思うが、人間社会の中でメディアが生きていく意味は、そういったものを正確に、理路整然とできるように追究していくことの上にあるはずだ。
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