『恐怖報道』なるワードがツイッターのトレンドとなっており、何が起きたのかと確認してみると女優の岡江久美子さんの納骨の様子を逐一報道していたことに対しての抗議のようだ。
これに合わせて先日アニメ『サザエさん』放送の内容が不謹慎(コロナウィルス拡大対策のため皆外出自粛しているのに、物語中ではゴールデンウィークのレジャーについて言及していることが相反している)かどうかという議論がツイッターで流れたことに対して、新聞メディアが「大炎上」と記載したことで物議を醸したことがつるし上げられている。
この事態に関しては、ふと思うことがある。まず「では、どうすればいいのか」ということだ。こういった騒ぎが報じられることに対し毎回思うのは、報道など多かれ少なかれ、見た人が全員納得できるものなんて作れない、どうやってもバッシングは受けてしまうものなのだ、ということ。
おそらく現状の報道を変えるには、報道に代わる何か別の機能を持ったものを、十分な議論の内に立ち上げて、現状「報道」と呼ばれるものを一掃してしまうしかないのではないだろうか。極論的にそんな感じではないかと思う。
でもどうだろうか?そんな文句の多い人たちに対して「では、あなたの考える理想の報道を述べてください」と言ってアイデアを出させても、それを受け入れられる人もいれば、ツッコミどころ満載だと一喝してしまう人もいるかもしれない。
そう考えると決して現状の報道の状況を肯定したりするわけではないが、社会の中でこの機能を消し去ることはできない。だったらあとは一般の人がそういった機関とどう付き合っていくか、また機関側が常に自分たちの使命をどうとらえるかに対して悩む、ということを続けていかなければならない、そういう結論…にはならないが、そういったところにしか落としどころはないのではないだろうか。
こんなことを言ったのは、個人的に「報道機関がクソだ!」といったツイートが出回るたびに、何かどこかで無駄が発生しているような気がしてたまらないのだ。ツイートしている人の労力はそんな大した労力ではない、全体的な、絶対的なエネルギーの消費はわずかかもしれないが、どうでもいい話に振り回されている気がしてならない。
「どうでもいい」などというとお叱りを受けるかもしれないが、こういった議論に意識を向けるくらいなら、自分のやりたいこと、すべきことに集中したほうが自分のためにはなる。報道にいちいち文句を言ってもメシの代わりにはならないのだ。
一方で考えたことがある。タイトルにある「ミイラ取りがミイラになる」現象だ。
私がライター業を志し、年齢もかなり高くになって退社したころ、とにかく仕事がなかった。それだけに背に腹は代えられぬという気持ちが半分、興味本位が半分という気分で、ある映画メディアのイベント取材募集に応募したときのことだ。
(C)2006 TWENTIETH CENTURY FOX
これは何をするかというと、メディアの要望を受けてイベントなり会見なりに出向き、撮影とともにその様子をテキストにおさめるというもの。
この仕事というのがとにかく最初は嫌で、何か現場の不文律というものがあるのかもしれないが、とにかく新聞社の、それもベテランそうなカメラマンが現場では幅を利かせる。で、そういった人たちに顔が利かないと、とにかく居心地が悪いのだ。
直接的にそういった行為を受けたことはないが、ある意味いじめや嫌がらせを受けたことにも相当するような気分で家に帰ることも少なくなかった。
ところがそれが何年も続くと、現場が当たり前の場所になってくるから不思議だ。よく不祥事や訃報の現場でカメラのフラッシュがパシャパシャと光るのを見ると、その無神経さにはらわたが煮えくり返るような気分になるが、それが現場に慣れてくると当たり前になってくる、どころか自分もそうなってくるのだ。
先程の『恐怖報道』で、とある元メディアの製作に携わっていたという人が、報道に対して説教をするようなコメントをツィートしていたのだが、「どの口が言っているんだ!?」と、思わず顔をゆがめてしまった。
ああいった現場からは今自分は離れてしまったので、以前のような感性を取り戻しつつある気もするのだが、とにかく報道に関しては賛同しないものの、私はその気持ちがわかる。
だからこそ現場の当事者たちに言いたいのは「自分を見失わないでほしい。その行為は自分の心と照らし合わせて、果たして正しいことをやったのか?常に自問してほしい」ということ。
あの現場に行くと、多分ああなってしまうのは宿命だと思う。しかし自分まで見失ってはいけないと思う。
私はあのころ、決してメチャメチャに輝いていたわけではないが、映画『ロックスター』、『プラダを着た悪魔』の主人公の姿には、どうもあの時の自分の姿を重ねてしまう。
終わったことはもう取り返しがつかないが、その行為を悔いることは、未来に生かすことができる。そしてせめて超えてはならない一線を守る、そのことだけは肝に銘じてほしいと思わずにはいられないのだ。
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