『不協和音』多数派の所感と“不協和”な、マイノリティの違和感

コロナウィルス拡大防止の波もあり、リモートワーク化促進が叫ばれつつある。そんな流れは自分としても避けては通れまいと、最近zoomでの会話などに積極的に参加するようになった。


そもそもライターという仕事をしている上で、リモートワークといってもピンとこない点はあるが、自身今年より東京から広島に拠点を移したことでzoomなどのツール活用は不可欠。

しかしこのテレビ電話というのがまどろこしくて正直苦手なのだ。一番の問題は、やはり対面に比べて圧倒的に対面者の情報が少ないこと。実際に話をしているとあまり気が付かないかもしれないが、たとえば普段の対面インタビューに比べると、相手の話の途中に話を挟み込むのが難しい。これは例えば今はやりの「オンライン飲み会」などをやっていると気が付くのだが、現行のシステムではクロストークができないため、会話のイニシアチブは「強く声を挙げたもの」に移る。

こうなってくると、あまり声を張り上げない人は会話に入っていけない。非常に難しいのだ。こういった動きは例えば5Gが一般化するとだんだん解消されていくのかもしれないが、それまではこういった不自然さに慣れていかないといけないだろう。

現状、そういった違和感に慣れていくために、普段は出なくてもよくてあまり気が乗らないような会議なども積極的に顔を出すようにしている。また「オンライン飲み会」なんて「バカかこいつら。そんなにまでして話が必要なのか。大体オンラインで飲み会なんて、”飲み会”として成立して無いんじゃないか」とか文句を心で唱えつつも、さまざまなことに気づくいい機会だろうと、さらに参加の機会を探っている。


さて、本ブログで栄えある第一回の音楽ネタは「欅坂46」である。まあいろいろいう人はいるかもしれないが、とりあえず思ったことを書いていきたい。これは先日ツイッターのトレンドを見ていた時、このタイトルが挙がっていたことふと思い出したものだ。


デビュー曲の『サイレント・マジョリティ』や『不協和音』のカップリング『エキセントリック』、あと『ガラスを割れ!』『黒い羊』など、いわゆる従来のアイドル的な側面のほかに、ある意味一匹狼、反体制派的なイメージを持つ彼女ら。

タイトルにある『不協和音』という楽曲も「欅坂46」の代表的な楽曲であることは間違いない。ただ、この楽曲のことを皆さんがどのようにイメージされているか、そこに実は一つの違和感を覚える。


一番よく聞かれるのは、サビ直前に聴かれる「僕は嫌だ!」という叫び声。この叫び声に衝撃を受けるという。ところがそこには違和感もある。

なぜ「僕は嫌だ!」などと叫ぶのだろうか。というのも「僕はNOとは言わない」などという歌詞から始まるこの楽曲、基本的に物事から絶対に逃げようとしない姿勢を、歌の主人公は発している。なんなら「かかってきやがれ!俺は逃げも隠れもしねえぜ!」くらいの勢いなのだ。これに対して「僕は嫌だ!」という叫びは、間接的にはつながるのかもしれないが、果たしてみなさんそこをうまく解釈されているのだろうか、と疑問に思える。


そう考えると、この「僕は嫌だ!」というフレーズは、ひょっとして全体的な作詞ができた後に、楽曲を作り上げ、そのアレンジ上で「う~ん、ここらあたりでパンチが欲しいんだよねえ…」などと後天的についたものなのではないか、という気もしてくるのだ。

インパクトの上でどうしてもこの部分に注視してしまうのは仕方ないのだが、歌詞自体を読んでいると、「嫌だ」という否定的な意見よりむしろ前向きな、肯定的な意向を感じる。果たしてこの解釈を皆さんはどう感じるだろうか。

先程「オンライン飲み会」の話をしたが、昨日とある機械に参加した際、現状の騒動に対する政府の対応などもろもろの話もあたのだが、広島の山奥にいる自分とはずいぶん違った感じ方をしているなとか、さまざまなことを思いつつ、自分がまだ東京にいたらまた違った思いをしたかもしれない、どちらかというと彼らと同じような思いをしたかも、などとさまざまなことを考えた。

この『不協和音』に対する、まさしく“不協和”な私の持つ違和感も、もし聞く立場が変われば違う感じ方もするのだろうか、などとふと考えた次第である。



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