『キャリー』共感から生まれる、恐ろしくも消せない思い

本当は構ってもらいたい、究極の「かまってちゃん」なのだろう、僕は。


いつの頃か、できるだけ一目のつかない方に移動する癖がついていた。それは自分でも気が付かなかった。

そして影で一人で腹を立てていることが多くなった。「俺はここにいるんだぞ!何で無視する?」と。


考えてみればおかしな話だ。しかし今気が付いた。「気づいてもらう」ことが、本当にしんどいことだったのだと。

小さいころから太って、やることなすことトロい僕は、多かれ少なかれよくいじめられていた。それが普通なのかどうかもわからないまま、時を過ごしてしまった。

そして気が付けば、みんなと一緒にいるのが辛いまま、僕は大人になってしまった。しかも、「みんなといるのが辛い」と自分では気が付かずに。


そんな自分はどうしていいかわからなかった。

一方で、芯な自分のことはみんなよくわかっているのだろう。「いじめ甲斐のあるやつだ」と。

小学校でもそんなことはあったような気もする。中学でも。高校では、いいやつが多かった。でも大学はみんなとの衝突に悩んでいた。そして社会に出れば、「社会人の厳しさだ」とか適当な理由をつけて、子供みたいな虐め方をする奴はいた。


そいつらは今でもしっかりと家庭を持って、今じゃ幸せな家庭を築いている。

人間なんて、所詮そんなものなんだろう。普通です、イジメなんかしない、そんな奴なんていない。

だから僕は、いつしか人の中にいながら、ぐいぐいと人前に出ることを避けていった。


そして、人と近づきたいと思いながら、人を憎んでいた。「俺を知ろうともせず、非議するばかりのやつらめ。みんな死んでしまえばいいんだ!」って。


言葉にすれば恐ろしい話だが、実はこんな感情になることなんて、簡単になってしまうものなんじゃないだろうか。

東京在住で受けた様々な心の傷を思い出しながら、コロナに翻弄される近日、「あの時僕を苦しめた奴らなんて、コロナで死んでしまえばいいのに」みんなどう思うかわからないが、正直をいえばそう思っている。


だから『キャリー』の怒りはよくわかる。自分に力があれば、みんな一掃してしまうのに。

みんなは僕のことを「ゆがんだやつ」と思うだろう。だがゆがんだ人間を作るのも人間だ。それも、僕のことなんか知らない、あるいは覚えていないような奴こそがそういうことをするのだ。


ネットワーク社会となった現在、人は相手のことをあまり知らずに生きることが多くなったと思う。

それは人々が相手のことを知る努力をサボってしまったことに原因がある。楽とか苦しいとかじゃない、相手のことは知る努力は必要なのだ。


SNSでは、相手のことを何も知らない奴らに向けた誹謗中傷があふれている。声を挙げている奴らに、果たして本当にその声を挙げる権利はあるのだろうか?誰一人として聖人なんていない。本当は誰もこんな悪口など言えた義理ではないのだ。

「お前ら、悪口もいいが、本当に相手のことを全部知っていっているのか?第一お前はどうだ?信用できる存在でも無かろうに」そう思える発言がSNSでは蔓延していて、目をそむけたくなる。


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